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To tomorrow From yesterday

失ったもの..。

50周忌...おふくろが、50周忌までは...と決心していた50周忌。
何に義理立てしたのか?何を意固地にそこまで頑張ったのか?
おふくろは、50周忌を家族で迎える事を喜んでいた。写真でしかあった事の無い祖父母や伯父さん達...、おふくろは、ひとつの務めを果たした。
一段落したら、お袋の好きな着物を見に、姉妹と京都旅行に行こうと、計画していた。
父も一緒でもかまわないが、落ち着かないだろうから、別行動してもいいように、計画しようと、話していた。

お昼過ぎ、50周忌をお寺で済ませ、家に戻り、ホッとしたおふくろを横目に、
私は、久しぶりに地元の友達に会いに行く事にした。
『夕飯は、友達とすますから、いらないよ〜。姉貴もいるし、少しゆっくり休んだらいいっしょ?』私は、ドアを開けながら、言い放った....。

夜、21時過ぎ頃、家に戻ると、おふくろは横になっていた。
別室の父に聞くと、夕飯の支度中に具合が悪くなり、倒れたんだとか...。
2階の姉に、『何時に倒れたの?』と聞くと、『17時頃...』とTVを見たまま返事する。ちょっとムカついて、『病院に連れて行かなくていいの?』
『本人がいいって、いらないって言うもの...』
『で、そのまま様子見てないの?』
『見てない....でも、大丈夫だって〜また、貧血ダベ!...』

なんだか、ムカついたまま、おふくろの布団の横に座り、
『起きてら?調子どんだぁ〜?』と聞くと、目は開いてるが、口が曲がったまま動かない、『ん〜?』と耳を寄せると、かろうじて、トイレに行きたがっている事が解ったが、一人で動けなかったらしい....一気に嫌な予感が走った。
『布団の中でしてもいいから、そのまま少し待ってて!』
私は、2階の姉に階段下から叫んだ『お姉ぇ===、救急車呼んで!』
『父さん!手伝って!母さん、トイレにどうしても行きたいって言うから、運びたいの!.....云々』救急車を呼んだ姉に、毛布や身支度の準備を頼むが、よくわかっていない。バタバタしていると、もう一人の姉姉が帰ってくる。

おふくろの状態を説明して、支度してもらい、救急車がきて....ピーポーピ〜ポー。
父を救急車に同行させ、姉と姉姉と私は、車で、後ろを付いていった。

県立病院...運ばれるおふくろの状態を再度説明...倒れてから、救急車を呼ぶまで、4時間以上経っていた事...気がつくのがもう少し早かったら、おふくろは麻痺せずにすんだかもしれない...放っておいた姉や父に怒りが込み上げた。

数週間後、右半分が動かなくなったおふくろの右腕が、脱臼したままだった事が発見された...トイレに移動させた時に、抜けて、そのままになっていたのだ...。
リハビリで動くかもしれない可能性は、肩が抜けたままだった事で、無いに等しくなった...固まった肩を動かす事の痛みは、おふくろのイライラを大きくするだけだった。

数ヶ月後、病院のベットから落ちて骨折...病院から、酷い骨粗鬆症だと言われた...ベットから落ちたのは、看護婦が誤って落したからなのだが、おかげで、おふくろのイライラが、動かない右側だけじゃない事が解った....骨折の手術後、痛みの消えないおふくろが、モルヒネ漬けになりそうだった頃、術後検診で発見された、肉腫だった。
足の付け根にソフトボール程の大きさの肉腫があったらしい...医者は、異物に気がついていたが、成長が余りにも遅く、年齢的なものも絡み、肉腫と判断し難かったらしい事を説明した...。母の代謝の悪さ、脳梗塞、体力...薬物治療や放射線治療は無理だった。
結局、ワイヤーでつった足とは逆の健康だったはずの足を、根元から切り落とす事に...。本当は、お尻の肉も取ってしまいたかったらしいが、寝る事も、座る事もままならなくなると言って、お尻の肉を残す事にしたとか...。
足の切断は、母が自分の意志で決めた事だが、切断後の違和感や痛みや、不安は、更に母をモルヒネ漬けにした。

足を失っても、のばせない手を邪魔だと体にくくり付けても、生きている母に私は感謝しているが、母にとって、それは、その姿は、望まない姿だったはず...。
考えている事が、そのまま口に出て来てくれるとも限らない母との会話は、まるで、とりとめの無い、音の交換でしかない...意思の疎通がとれているとは、なかなか思えなかった。アチコチ動き回ってばかりだった母、その母に、生きているだけでいい!なんて、軽々しく言えない私がそこに居た。
母の中で私は、小学校に上がる前で止まっている。
海が嫌いで、泳げなくて、自転車にも乗れない私のままだ...でも、私が、仕事を休んで病院に来ている事は理解している...記憶と現実がねじれているようだった。
そんな母との会話に慣れた頃、私は言った『よく決心したね...足の事...』、すると
『別に...切らなきゃ、死ぬって言うからさ...でも、もうどこも切らない!からね!!』
それはまるで、私に、もう頑張らないからね!次は、すんなりあの世に行かせてくれ!と言われているような気がした。確かに、今度はそうしよう...。

1年...モルヒネを卒業し、リハビリをして、病院から介護施設へ。
5年目、肉腫が肺に転移、内視鏡手術で、何とか採れる部分だった。
10年目、やっぱり転移した...肺全体に広がっていた。
開胸手術には耐えられないだろうし、薬も、放射線も、耐えられない...母には、結局、肉腫をそのままにしておくしかなくなった。今回の転移は、母には告知しなかった。

普通、肉腫は、若い世代に多く、肺に転移すると、あっという間になくなってしまうが、母は、歳も歳...肉腫の成長も遅く、たぶん母の代謝の悪さからすれば、肉腫も栄養失調なことだろう。

母は、12人兄弟の一番上、妹二人に後は弟。
当然、戦時中だった事もあり、小学校を4年で中退し、兄弟の面倒を優先させる。
家は漁師の頭だったのか、若い衆が多い時は20人も居たとか?
夜中にご飯支度し、朝2時には一升の米を炊いていたらしい。
それでも、白いご飯は稼ぎの男衆のため、女達や子供は汁をすする生活だったと聞いた事がある。当時の事を詳しく聞いた事は無いが、食べ物を確保するために、荷物を背負って稚内から青森まで移動し、米や野菜と交換して、また稚内へ戻ったらしい。
まだ、子供の母が、どんな状況で、物々交換していたのか?移動していたのか?
そして、兄弟の面倒を見ながら、漁の手伝いをしていたのか?想像しがたい。

母が、失ったものは、足だけじゃない。物心つく頃から、自分の時間など無かっただろう。結婚するとき、母は、公務員に嫁いだら、そんな苦労はしないで済むと思ったらしい...父が、召使いを雇って楽させてやると口説いたらしいが、その約束は、果たされる事は無かったと...笑って話していたっけ。
父と結婚してからも、生活は貧しく、頑固な父に苦労した事だと思うが、母にしたら、実家の苦労から比べたら、取るにならなかったのかもしれない。
戦争の貧困さ不条理さに比べたら...。
夫婦喧嘩が盛んだったとき、私は、『別れて幸せなら、別れていいよ!私たちのために我慢はしなくていい!』と言った事がある。母は、何も言わなかったが、今では、動けない事をいい事に、父を顎で使う毎日...。父は、介護施設へ入れるまでの1年間で、料理を覚え、洗濯を自分でするようになり、リハビリもちゃんと母に施していた。
父は、よっぽど介護施設に入ってホッとした事だろう。
私がたまに帰って料理をすると喜んで食べてくれた。
父の口に合わないようなおかずでも、褒めてくれた。

まぁ、一番ホッとしたのは、母かもしれないが....。
父自己流の料理は、一般向けの味付けとは変わっている...。
栄養だけを重視した、味は未知な料理がホドンドだった...。
一度、正月に帰った時、父が、私に、冷蔵庫に作り置きしたドリンクを勧めた事があったが、その異様な色に、何が入ってるの?と聞くと、
コーヒーに砂糖(父は砂糖好きで、カップにレンゲ三杯は入れます)とチーズと...云々をミキサーにかけ...云々...『あ〜後で貰うわ...』といって、こっそり飲んだふりして捨てた事がある。(ごめんなさい..どうしても、飲めなかったのよ〜)

今、父も母も週に2日間一緒に過ごしている。
会話は、どう聞いても互いに違う話をしているのに、二人は理解しているらしい....。
そんな二人を見て、離婚しなくて良かったのかも...と感じた。

今でも母が幸せなのか?疑問に思うことがある...。
聞く事も、答えてもらう事もないとは思うが...その時まで、母が苦しむ事なく、安らかに過ごせる様、祈るばかりの毎日です。
by marquetry | 2008-12-09 17:59 | 海馬のくずかご
<< なにが減額だって?...。 確かに...そうかも? >>



昨日の私から、今日の私が、明日の私へ残すもの。

by marquetry
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